• 清朝における「詔書」の作成、皇帝権の継承及びその歴史

    清朝における「詔書」の作成、皇帝権の継承及びその歴史 清朝において、皇帝の名義を使って公表した命令には、主に「制」、「詔」、「誥」、「敇」などの形式がある。そのうち、「詔書」の目的は、天下の臣民に対し国の政策あるいは常例法律などを告知することである。その書式は、冒頭に「天(上帝・天帝)の命を奉じて天機を承った皇帝が詔を布告する」という定型句を用いて全体の主旨を明らかにし、「中外/天下に布告し、ことごとく聞知せしめる」という言葉で締めくくる。詔書は内閣が起草し、その後、皇帝に欽定を請う。皇帝の即位、親政、崩御、称号の贈与などは、すべて「詔書」によって公表する。詔書は黄色い紙に墨書し、満洲文及び漢文を併せて記入し、また年、月、日及び紙の連結箇所に「皇帝之宝」との宝印を押す。これは「宝詔」とも言われる。

    順治元年(1644)十月、清世祖は皇帝として即位し、「即位詔書」を公表した。清軍はすでに京畿地区を完全に支配し、南下を謀っていたところであり、その際の檄文の中で、清世祖は南方に対し、崇禎帝の遺詔を得ないまま福王由崧が擁立されたことを真正面から厳しく糾弾した。その意図するところは、福王が皇帝位を許可なしに継承し、自らを正統と主張したことは認めることができないというものである。当時の満洲族は、清太祖ヌルハチは無論のこと、清太宗ホンタイジが崩御した後も「遺詔」を出さなかった。清朝の第一部の遺詔は、順治帝(1644~1661)の名義で公表されたものである。正確に言えば、崩御した皇帝の遺詔を公表する時は、おおよそその皇帝権力の移行が確定された後になる。

    ただ従来の帝王達は「死」を忌諱とみなし、その臣下も彼の考えを予知できないまま「遺詔」を作り、臨終の前にも恐らく皇帝自らによる確認も取ることはできなかったであろう。しかし、この皇帝による最後の命令は、その在位中における最も重要な命令であろう。朝廷は「遺詔」を通して皇帝権の委譲及び政統の継続を宣告する。言い換えれば、遺詔は崩御した皇帝の名を使って天下に公布するのである。旧来の皇帝がすでに亡くなってから、新しい君主は命をうけて即位する。それによって、皇帝制度を従来通り運営し、王位も憂いなく末永く継続できる。
     
    清の歴代「遺詔」の作成過程及び記述の内容には、早期の皇帝権力による国家機関に対する掌握から、後半期の国家機関による皇帝に対する牽制へと次第に変化していったことが、おおむね反映されている。清朝の初代の皇帝達は、自ら詔書の内容を吟味し、あるいは生前にその草案を作った。たとえば、順治帝は詔書を借りて自分の責任を追及且つ弊政を指摘し、前の誤りを後の戒めとすることを期している。康煕帝は歴史における自己の評価に着目し、さながら自伝式の墓誌銘のようであった。雍正帝は過去の規定や未来に向けて政治の配分などに注目する。乾隆帝は皇位を嘉慶帝に譲った際に、自ら確定した「伝位詔」は自分の功績を総括しながら、皇帝権力の継続を再宣告したものとする。その内容及び格式は実に乾隆朝の「遺詔」でもある。

    嘉慶帝以降、臣下達は崩御した皇帝の上諭に基づき、皇帝在位期間の国情や成績を纏め「遺詔」を作成した。この際、すでに皇帝による歴史の解釈は見られなくなった。徐々に正常化する作成工程において、皇帝の個人的な特色は公式化された書き方の中で消えて行く。早期において皇帝による制度上でのとり決めや変更は、徐々に累積され「祖先家法」となった。中期以降の皇帝は、祖先家法によって縛られ、国の典礼制度も日々複雑となり、その個人的権威も形式化の拡大のなかで徐々に減退していった。
     
     
  • 詔書の公表及び複製――中央から地方へ

    詔書の公表及び複製――中央から地方へ 詔書は皇帝の名義で公表されると、礼部による複写を経て、一定のルートを通して天下に告知された。康煕四十二年(1703)、その伝達距離の遠近に基づき、明確に部の齎詔官達が各地へ赴き詔書を頒布し戻ってくる制限時間を定めた。一般的に言えば、官員は一つ詔書の正本及び幾つかの副本を持って、指定された各地へ行って宣読した後に、また中央へ戻る必要があった。各地方にも、その詔書の受け取った時間を本部へ報告し備考として記録を残した以外に、また必要に応じてさらに幾つかの副本を作り、さらに下の管轄地域各地へ伝えた。ただし、中央から各地へ詔書宣告の官員を派遣させる制度は、道光十五年﹙1835﹚に重要な改革がなされた。道光十五年九月十一日、皇帝の指示によって、「今後駅館によって配り、官員を派遣する必要がない」という詔が出された。これ以降、詔書を配布するための官員派遣制は廃止された。
     
    詔書を作った後には、当然それを再生産する過程を必要とし、それによってはじめて適時に天下へ公表することができる。また、地方で宣告した後には、中央へ戻させる必要がある。無論、その宣告対象は中土の臣民に限らず、外交国と藩属国も含める。たとえば、朝鮮、外国藩及びモンゴル諸国などである。乾隆五十五年﹙1790﹚は、ちょうど弘曆皇帝の八十歳の誕生日に当たり、彼は特別の指示を出して、朝鮮以外に、ベトナム、琉球、暹羅の三国も同じく詔書を頒布した。この後、皇帝からの詔書はこれらの属国まで頒布された。普段は、朝廷から朝鮮へ正使と副使を派遣し詔書を配り、モンゴル諸部の場合は理藩院から官員を派遣させた。それ以外の諸国は、該当国の大使によって伝えて、あるいは諸国に近い各地方の鎮撫から伝達した。たとえば、両広総督は暹羅に伝え、広西の鎮撫は安南を担当、雲南貴州総督は緬甸、福建浙江総督は琉球を担当とした。